2008/6/18応募
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朱墨
祖父は骨董に凝っていて、特に気に入っていたのが一本の古い朱墨だった。
僕を胡座の上に載せては、奇麗だろう、と良く自慢した。しわくちゃの手で墨の全面を見せるようにくるくると回して見せるのだけど、あまり奇麗には見えなかった。別に装飾があるわけでもなく、細かなヒビは何本も入り、肝心の朱色もだいぶ色褪せて言われなければ気づかないように思えた。
だけど僕は祖父が喜ぶように、きれい、と答えた。すると、そうかそうかと僕の頭を撫でて喜んだ。
そんな祖父の様子がある時期を境に変わる。元気だった祖父が急に惚けたようになってしまった。祖父の言葉を借りれば「朱墨の色が退いた」ためのようだった。
周りにはその言葉の意味が分からなかった。誰の目にも、別に色が退いた様には見えなかったからだ。そのことを祖父に言っても、いや色が退いてしまった、と言って聞かなかった。そして、俺はもう駄目だ、朱墨に嫌われた、逃げられてしまった、と妙なことを口走るようになった
ほら、もう色が退いてしまったろう、と床に伏せた祖父は僕に朱墨を見せる。骨と皮ばかりだがやけに力の強かった祖父の面影はもはやない。やはりくるくると墨を回してみせるのだけど、以前ほどの軽快さはなく、止まりかけたオルゴールのようだ。
それは以前と全く同じ様に見えた。僕が返事に困っていると、お前は優しい子だから言いたくないのだろう、やはり色が退いてしまったんだ、と祖父は寂しそうに微笑み、僕の頭を撫でた。
それからしばらくして祖父は亡くなった。臨終の際に、これはお前にやる、と言われた。小さな桐の箱だった。手に取り開けてみると、夕陽を閉じ込めたような鮮やかな朱墨があった。奇麗だな、と思った。
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